看護の日

毎年5月12日はフローレンス・ナイチンゲールの誕生日にちなんで「看護の日」ということになっている、らしい。この時期になると週末などに看護協会が中高生を対象にした看護体験会とかイベントをどこかしらでやってたりするのだけど、実はこの日は特に制定されているわけではなく、ただ看護協会がそういってるだけだったりする。まあ他の国でもこの日はどうやら「看護の日」で、アメリカでは1982年に当時のレーガン大統領によってNational Recognition Day for Nursesとして宣言されているし、ベネスウェラで看護学校の教員をしている友人からは「Feliz día de Enfermeria!(看護の日おめでとう!)」というカードが来ていた。わたしとしては「医師の日」があってもいいし「介護の日」があってもいいと思う。もうあるのかな。

そして毎年「看護の日」のポスターはどうかねーというセンスのものだったりするのだけど去年のは殊に、というか半年ぐらいたってからこそっと悪態をついてみたぐらいちょっとイラッとしたのだが、今年のは結構良いのではないかと思う。
・・・忘れてしまいたいことだってありますが。

遷延性意識障害のケアユニットで働くようになり、4年近く経つ。途中ボリビアに行くために抜けたことはあったが、帰国したらまた戻ってきて同じ病棟で働いている。はっきり言って決して楽な病棟ではない。誰一人自力で動ける人はいないし、全員気管切開されていて声を出せる人もいない。ほぼ全員意識レベルはJCS3桁(深昏睡)で、人工呼吸器が装着されている。わずかに神経難病などで意識がはっきりしている人もいるが、その人たちも全く動くことはできず話すこともできない。ナースコールを押して呼ぶことのできる人は二人だけいるが、そのうち一人はさほど遠くない将来やがてそれもできなくなりそうである。

わたしは多分「物言う人」があまり好きではないのかもしれないな、と最近思うようになった。客商売をしていたこともあるし、コミュニケーション能力が低いわけではない。看護師になってからも、かなり難しい人の対応もクレーム処理もある程度の評価はされてきた。だけどわたしは、そういう人たちが「言葉」を使って、出せる声で伝えてくる「要求」に応じていくよりも、むしろその陰に隠れた「物言えぬ人々」のそばに行き、その顔を見て、呼吸音や心音を聴き、手で触れた感触を確かめて彼らの決して伝えることのできない何かを注意深く観察して気づくことに力を入れたいと思っている。おそらく「物言う人」にとってはさぞ冷たい看護師に見えるだろうと思うが。しかしトリアージだって原則は「より近い者、より騒がしい者を避ける」である。

1971年2月のAmerican Journal of Nursingで、「人間対人間の看護」のトラベルビーによって初めて紹介された「きいてください、看護婦さん」という詩がある。(ボリビアの看護学校で教えていた時にこの詩をスペイン語訳して教材に使った)

ひもじくても、わたしは、自分で食事ができません。
あなたは、手の届かぬ床頭台の上に、わたしのお盆を置いたまま、去りました。
そのうえ、看護のカンファレンスで、わたしの栄養不足を議論したのです。

のどがからからで困っていました。
でも、あなたは忘れていました。
付き添いさんに頼んで、水差しを満たしておくことを。
あとで、あなたは記録につけました。わたしが流動物を拒んでいますと。

わたしは、さびしくて、こわいのです。
でも、あなたは、わたしをひとりぼっちにして、去りました。
わたしが、協力的で、まったくなにも尋ねないものだから。

わたしは、お金に困っていました。
あなたの心のなかで、わたしは厄介ものになりました。

わたしは、一件の看護的問題だったのです。
あなたが議論したのは、わたしの病気の理論的根拠です。
そして、わたしをみようとさえなさらずに。

わたしは、死にそうだと思われていました。
わたしの耳がきこえないと思って、あなたはしゃべりました。
今晩のデートの前に美容院を予約したので、勤務の間に、死んでほしくはない、と。

あなたは、教育があり、りっぱに話し、純白のぴんとした白衣をまとって、ほんとうにきちんとしています。
わたしが話すと、聞いてくださるようですが、耳を傾けてはいないのです。

助けてください。
わたしにおきていることを、心配してください。
わたしは、疲れきって、さびしくて、ほんとうにこわいのです。

話しかけてください。
手をさしのべて、わたしの手をとってください。
わたしにおきていることを、あなたにも、大事な問題にしてください。

どうか、きいてください、看護婦さん。

この詩を引き合いに出して「だからもっと患者の話を聞いて優しく丁寧に対応しろ」と要求する人も確かにいる。しかしこれは患者側からの「要求」の詩ではなく、看護師である我々が「物言えぬ人々」と向き合うときの心構えの詩であると思う。実際この詩の作者であるルース・ジョンストン自身も看護師であった。

先日実家に電話をしたとき、母に「確かに『医療の無駄遣い』やと思うし、自分がそんなになってまで生かされたいか言うたらイヤやけど。でもあんたは気にせんと自分の思うた通りにやんなさい。たとえそんな状態になったって、話せる人と同じようにちゃんと話しかけて、同じように看護してる人たちがここにおるんやでってことに安心する人や勇気づけられる人たちもきっとどこかにいるはずなんやから」と言われた。

「おかーさんみたいなリアリストが珍しく甘っちょろいこと言うねー」と、ちょっとびっくりすると

「だってお父さんやあんた達がそうなったら『本人も望んでませんでしたし医療費の無駄ですから(キリッ』って言い切る自信ないもーん。リアリストいうのはな、そんな状況になったときに自分がどんだけ理不尽な希望を持ってしもうて、ブザマな姿でお願いしてしまうやろかってことをちゃんと現時点でありありと想像できてこそやで」と言って笑った。

そういえば毎日のように面会に来ている患者の家族が話しかけ、音楽を聞かせたりしているが、後輩が「○○さんのご家族って、いつか意識が戻るって信じてるらしいですよ!前の病院でちゃんと説明されなかったんですかね!」と言ってきたことがあったので「どんだけ可能性が低いって説明されてもさ、やっぱり人間最後まで『希望』って持っちゃうもんなんだよ、それがどんなにありえない話でも。違う?」と返したことがある。これはキュブラー・ロスの掲げる「死の受容過程」の中でも言われているが、受容のプロセスというのはすべてが段階で切り替わってしまうものではなく、過程を経ながらそれでも根底には細く細く、最期の瞬間まで奇跡を待つ「回復への希望」はつながり続けていくのだという。

残念ながらわたしはそのような「奇跡」をこれまでの仕事の中で目にしたことは一度たりともないし、いつか「奇跡」が起こることを信じるにはすれっからしになりすぎた。だからといってその「奇跡を待つ気持ち」があることまで否定してしまうことはどうもできないのである。それは患者を取り巻く家族だけではなく、今「物言えぬ」状態の患者の中にもあるかもしれないと思う、たとえそれが誰にもわからないものであっても。

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似る、フェミニスト

患者さんだけじゃなくてその家族と関わるのも仕事のうちではあるんだけど、面会に来た人の顔を見て、名乗られる前にどの部屋に案内すればいいのかすぐわかったり、「患者さんが立って歩いてる!」と一瞬勘違いしてドキッとするぐらいだったりというのを10年近く何度も見ているとしみじみ「やっぱ親子きょうだいって似るんだよなあ」と遺伝を実感することがよくある。自分が子どもの頃は、親戚や近所の人たちに親に似ていると言われてもどこが似ているのか全くわからなかった。鏡に映っているのはどう見ても自分の顔で、自分の顔のパーツのどれが父に似て、母に似ているのかが全く見いだせなかったのだ。しかし国家試験受験のとき、願書と受験票に貼る証明写真を撮りに行き、出来上がった写真を見たら「おっ、お母さん?!」と口走ってしまうぐらいに似ていてサブイボが立った。あれぐらい怖い思いをしたのは初めてだった。周囲にも子どもの頃は親に似てると思えなかったのだが大人になってから気づいたという人は多い。どうして子どもって自分が親に似てることに気づけないんだろう、と思っていたのだが、こんな恐怖感子どもには耐えられんわマジで。

二つ下の妹がいる。彼女の方はわたしと違い顔立ちは父親似である、というかまんまコピーである。昔から母はことあるごとに彼女をブスだと言い続けていた。しかしそう言うと同時に必ず「それが可愛くてしょうがない」とも言っていた。そのせいか彼女はものすごく自分の容姿に関してはポジティブである。オシャレも大好きだし、目立つことも好き、何より他人が示す好意に対して過度に警戒も疑念も持たないで受け止めて、相手に返すことができる。ところが母はわたしの容姿については何も言わなかった。むしろ避けていたようにも思う。この子は手足は長くてスタイルだけはいいからねぐらいのことは言っていたが、妹に対してのようなことは一切言われた記憶はない、可愛いともブスだとも。今思えばわたしがあまりにも母に似すぎていたせいで言えなかったのか、いやそれよりも、彼女自身が自分の容姿を肯定的に受け止めていなくて、彼女によく似たわたしを見たくなかったのかもしれないとも思う。わたしは写真を撮られるのを極端に嫌がり、鏡を見るのが嫌いだった。特に自分が醜いと思っていたわけではなかったが、自分の姿をできる限り見たくないと思っていた。

しかし大学をすぐに中退してしまってぶらぶらしていた頃に、友達に誘われ時給の高さにつられてモデルやコンパニオンのアルバイトを始めることになった。それまで鏡すらろくに見ようとしなかったわけで、化粧など真似事でもしたこともなく、初めて他人の手でどんどん自分の顔を作られていくのを見たときにも、変わっていく驚きより居心地の悪さしか感じなかった。ところがわたしの居心地の悪さには関係なく、その仕事はいくらでも入ってきた。当時はただ「若い女」というだけで、そこに立っているだけで、微笑みさえしなくても勝手にどんどん目の前に金が積み上がっていく時代だった。しかしそのお金を出す人たちも、たぶんわたしが目当てで出しているわけじゃないんだろうなとは感じていた。かといって「若い女」であれば誰でもいい、というわけでもなさそうだった。多分彼らは「こんなくだらないもののためにこれだけの金を出せる余裕のある自分」を誰かに見せたいだけのかもしれない、とわたしは思っていた。

ある日、コンパニオンで呼ばれていたパーティで地元企業の社長二人に声をかけられ、国際的なミスコンテストの日本代表を決める地区予選に出ないかと誘われた。彼らはその地区予選の審査員5人のうちの二人だった。あと二人を説得してわたしに投票させれば地区代表になれるから、と言うので「なんでそんな話わたしに持ってくるんですか」と聞いたら実は参加者がなかなか集まらないのだという。バブル崩壊直後で、コンテストのスポンサーがつかなくなっているのは知っていた。そのため副賞が以前とは段違いにショボくなっているにもかかわらず、タイトルを取ったあとの拘束(他のコンテストに出場できない期間やキャンペーン協力など)は前より厳しくなっていて、ミスコン入賞が「女の子たち」にとって決してうまみのあるものではなくなっているらしいのも感じていた。だから地方のミス○○なんてキャンギャル決定や女子アナ就職のための箔付けみたいなコンテストの参加者なんて実質いないも同然で、残りは頭数合わせにコンパニオンやモデル事務所から「アルバイト」として呼ばれ、わたしもそれで何度か出場したことがあった。簡単に言えばサクラである。しかしまさか地方予選とはいえそんな国際的なミスコンにまで人が集まらなくなっているとは思っていなかった。

その話は丁寧にお断りしたのだが、わたしが「社長に娘さんがいらっしゃったら、こういうコンテストに出場させますか?」と聞いたら彼らは二人とも「絶対に出場はさせない」と言った。そして一人は「女の子がね、売りにできるのは美しさだけで、それで成り上がっていけるっていうのはいろんな意味で貧しい国だってことなんだよ。そろそろ日本がそうじゃなくなってきたんだと僕は思いたいね」と言った。それを聞いたときにわたしは、今までバカバカしいと思っていたミスコンの本当のバカバカしさが見えたような気がした。

当時もう、フェミニスト団体などがミスコンテストを「性の商品化」だと言って反対していて、ある時わたしが出たミスコン会場にも抗議しに来たことがあった。その時ミスコン開催者側のイベント会社の男性がわたし達の機嫌を取るつもりか「あれはキミ達と違って、もてないブサイクな女やもう男には相手にされなくなったおばさん達がひがんでるだけだから」と言っていた。しかし出場者の女の子達がみな一様に不快感を感じたのはフェミニストではなくその発言をした男に対してだった。裏でわたし達が雑談していたときに、ある女の子が「文句を言ってくるのは差別された側からだけで、贔屓された側は無条件に感謝して自分に好意的になるとでも思ってんのかしらねえ?」と鼻で笑いながら言って、わたし達は彼に対して持った不快感の正体に気づいて、一斉に「ああ!」と手を叩いた。自分さえ優遇されるのならば、たとえ他の人達をサゲたり攻撃していても別に構わない、むしろ「わたしのために、ありがとうございます」なんてヌケヌケと言えるのだとしたら、それはただの残念なおミソの持ち主か根っからのクレーマー体質である。何よりわたし達はそう見積もられていたことが不愉快だった。

母はよく「顔立ちなんて皮一枚や」と言っていた。皮一枚剥いてしまえばどうせみんなほとんど同じような姿でしかない。その皮一枚ではじめから「差別しますよ」と公言している人間を誰が信用できるだろう?さほど考えなくたってわかる簡単な話である。

プライベートで聞かれること

看護師をしていると、プライベートでいろいろ聞かれることが多い。。たとえば、風邪の対処法だとか子供関係とか、、女性でいえば生理のこととかね。

特に最近は生理のことを聞かれることが多い気がする。婦人科じゃないからプロフェッショナルなことは分からないけど、同じ女性として学生の頃もそうだし、今も結構勉強してるから知識はそれなりにある方かな。

一番よく聞かれるのは、妊娠だね、やっぱりw 性交してから生理が来ない、もしかしたら妊娠してるんじゃないかって。まあよくある話。ただね、これに関しては言うことないんだわ。心配するってことは避妊してないってことだし、避妊しろとしか言えんw

まあ少し冗談挟んだけど、ストレスとかで生理来なかったりすることは多いし、遅れて来た!っていうのがほとんどだから、そこまで心配しなくても大丈夫なんじゃないかなって、いつもアドバイスはしてるよ。もちろん避妊は念押しするけど!w

次ぎに質問が多いのが「過長月経」ってやつ。生理ってもちろん人によるんだけど、だいたい3日~7日で終わるもので、それ以上、つまり8日以上続く場合を「過長月経」って言うんだけど、結構これに悩まされている人が多いみたいよ。私は5日以内にはいつも終わってるけど。

生理って本当にストレスの影響を強く受けるし、「過長月経」も然り!毎回8日以上続く場合には子宮筋腫とか内膜症とか婦人病の可能性はあるけど、一過性の場合はほとんどがストレス要因でホルモンバランス崩してるだけだから問題なし!

過長月経については、生理期間が長い、生理が終わらない(止まらない)原因とは?に網羅してあったらから気になる人は読まれたし。ちなみに過長月経の反対で、「過短月経」っていうのもあるよ。これは1日~2日で終わっちゃうケース。まあ、これも同様にストレス要因が強いから気にする必要はないかな。

婦人科って恥ずかしい部分がみられるから行きたいないし、だからなおさら女性は気になるんだよね、生理のことって。まあ病気の可能性もあるから、一応アドバイスとしては病気のことと、続くようなら婦人科に行ってねとは言うけど、基本的に問題ないことが多いから、ひとまず考えすぎないことが大事かなと。考えすぎることでストレス溜まって、生理不順を引き起こすことは結構多いから。

とまあ今日はちょっとしたアドバイスをしてみましたw とにかく生理って必ず変動があるものだから、あまり気にしないこと!!以上。

ケニアでの医療支援活動

ケニアに医療支援活動に行っていたときのこと。電気も水道もない村で現地家庭にホームステイし始めて一週間、不便な生活にはすぐ慣れた、体を洗うのにバケツに水を汲んで担いで帰り、その一杯の水だけで髪も体も全部洗うことも、日が落ちてしまってからは小さな石油ランプの明かり一つが頼りであることも、家の外にある鍵もドアもない掘っ立て小屋の中に穴を掘っただけのトイレも。しかしどうしても慣れることができなかったのは、どこへ行っても好奇の目でじろじろ見られることだった。なんせケニアの中でもかなりの僻地で外国人なんて誰も見慣れていないところに、新聞や雑誌でもあまり見ないアジア系の外国人である。(アジア系でもインド人なら佃煮にできるほどたくさんいたのだが)大げさな話ではなくわたしを見物するために村中から人が集まってきていたような状態だった。何もかも揃った先進国の病院から昨日今日いきなり物資も機材も絶望的にない中に放り込まれて、判断を仰げる医師もいない、たかだか経験4年程度の自分の観察と判断にすべて委ねられている、患者は次々とやってくる、そんな状況での自分の一挙手一投足をまったく関係ない野次馬が山のように集まり、診療所の窓の格子に鈴なりにぶら下がって常に見ているのである。この状況が自分にとっての一番のストレスだったと思う。

そんなある日、ステイ先家庭のママがどこからか魚(ケニア内陸部ではビクトリア湖周辺を除きあまり魚は食べない)を手に入れてくると、それを塩焼きにして夕食に出してくれた。出されたその魚は日本では見たこともない大雑把な淡水魚で、海の魚に慣れた日本人にとっては決して食欲をそそるものではなかった。ケニアやタンザニアでは魚は煮るか油でカリカリに素揚げにして食べるのが常である。日本人は日頃から色々な種類の料理を食べなれているので比較的融通が利くが、食材も調理方法も限られた国の人々は驚くほど頑固に食に関する「ルール」を崩そうとはしないものである。だからママがそれをジコ(スワヒリ語で七輪のこと)で塩焼きにしているのを見てわたしは驚いた。するとママは「でも日本ではこうやって食べるんでしょう?私達にとっては不思議だけど。さあさ、今日は日本風の魚料理よ、しっかり食べてね。エボリを今より痩せて帰らせるわけにいかないわ、あなたの日本のママを悲しませたくないもの!」と言って笑った。

看護には、何らかの原因によって失われた「日常性」を少しでも取り戻す、近づけることを目的とした援助の方向性がある。例えばまったくの急性期にあって身動きも取れないICU患者の清潔ケアに普段使っていたシャンプーや石けんを使うとかいう程度のことから、ターミナル期の患者の病室を元気だった頃過ごした家庭の姿のように整えて家族とともに過ごす時間を取るとか。あるいはうちの病棟の患者のような遷延性意識障害の患者の枕元で本人が好きだった音楽を流すとか、まあこれはほとんどおまじないというかこちらの自己満足みたいなものではあるけれど。この「日常性」へ向けた援助はナイチンゲールの著書「看護の基本となるもの」の時代から今日のヘンダーソンやトラベルビーの看護理論などへ、言葉や形を変えながらずっと受け継がれている大原則のひとつである。

ケニアのママが看護理論なんてものを知っていて実践していたわけではないと思う。でも「非日常」に放り込まれ困惑し疲労している人間をこれまでの「日常」に少しでも近づけることがそのショックを緩和し、ストレスに対処する気力を取り戻すことにつながるのは経験的に知っていたのだと思う。それははっきり言って本当にまずい焼き魚で、決してわたしに日本での「日常」を思い出させるような代物ではなかった。だけどママがまったく想像もつかないような遠い国の見たこともない料理に思いを凝らし、安くはない魚をどうにかして手に入れ彼女達の常識ではありえない、いわば「ルール違反」の調理をしてわたしに食べさせ、彼女達にとってもおいしくはなかっただろうに一緒に食べてくれた、彼女のその想像力といたわりの力にわたしはどれだけ励まされたことだろう。わたしはそのまずい焼き魚を全部食べた。食べながらぼろぼろと涙が出て止まらなかった。

わたしはかなりタフだと思われているようだが、実はこれはまだタフなわたしになる以前の話である。わたしだって最初から「何でもかかってこんかいっ!」というヒトではなかったのだ。少なくともわたしは、そのまずい焼き魚を食べたその日から、どんな不自由な暮らしの中でもできるだけのことをやっていこうという覚悟が決まった。カンガを腰に巻き毎日ママとともに台所に立つようになり、ケニアの娘としてスワヒリ語の名前をもらい、コミュニティの中にもどんどんすすんで入っていくようになった。そしてこのとき得たものがさらにわたしの背中を押し、今も動かし続けているのだと思う、エクアドルで、ボリビアで、パキスタンで、そして日本での普段の暮らしでも。

アルピニストの野口健が被災地へ送る救援物資の中にタバコと酒があったということで、公式ブログのコメント欄にそんなものを届けるのはケシカランというコメントが多数ついていた。確かにものごとには優先順位があり、生命維持に必要なものを最優先して送らねばならないルールがある。登山家といえば何が必要不可欠か、何が持って行ってもムダに終わるものなのかを正確に判断して最小限に荷物をまとめるプロでもある。これは旅慣れている人にはよくわかると思う。しかしなぜそこに彼はあえて「ルールを外した」嗜好品やおもちゃなども送ることにしたのか。

きっと、野口健も「非日常」の中でほんの一瞬でも取り戻す「日常」がどれほどの力を生むのかをよく知っているのだと思う。彼の場合の「非日常」はわたしの経験なんかよりもっと切迫した、一つ間違えば命を落としかねないほどのレベルのことで、その中で感じた「日常」に、絶対に生きて帰るぞという気力を奮い立たせたことが何度かあったのかもしれない。

もちろん自分が携わっているのが医療である以上、生命維持に直結する身体ケアがまず精神的ケアより優先するという絶対的原則は常に意識している。それでもわたしは彼が被災地に嗜好品を送ること、その中に酒やタバコが入っていることに対してタバコは害である、酒は依存性があるという誰が聞いてもごもっともな大義名分を迷わず振りかざすことができない。それはわたしがいわゆる「ルールを外した」計らいによって自分が救われたと感じたことが確かにあるから、だからなのだと思う。

バルセローナ!

今年最初のエントリで予告していた通り、欧州某所へ行ってきた。
バルセローナ!

先月から公私共に穏やかではないことが続き、行けるかどうかもよくわからない状況で、キャンセルしちゃおうかなー・・・と思っていたところ、何人かの近しい人々にとん、と背中を押してもらって踏ん切りがついた、心配なこともやらねばならないこともあるけれど、向こうでもやらねばならないことはある。よし、行こう。

ツイッターのほうではずっと経過報告はしていたんだけど、今回の旅の目的のうちの一つは留学先の学校を探すことだった。
これはポンペウ・ファブラ大学の看護学部の入学案内

バルセロナに来て最初に見に行ったサン・パウ病院(世界遺産、現在も診療をおこなっている)で、白衣姿のやさぐれた雰囲気のオバちゃん職員が外に出てぷかーっと一服しているのを見かけたので声をかけてみたら、整形外科病棟の看護師で、あー、わたしも看護師なんだけど、このへんでいい看護学校ってない?と聞いたら「あ?スペインで働きたいの?」と言うからまーそれも考えてるんだけどさ、と言うと

「いろいろあるんだけどさ、学費高いんだよね。日本の免許があるなら4年フルで行く必要ないはずよ。私が行ってたのはサン・パウ看護学校でこの坂下りたとこにある教会の右手にあったんだけど、今は移転しちゃってどこにあるか忘れちゃったからネットで調べて行ってみたら?」

と、親切に教えてくれたもので、ホテルに戻って調べてみたらサイトがすべてカタルーニャ語で書かれていて解読不能。このへんからどうもイヤな予感がしていたのだが、その次に行ってみた病院併設の看護学校で受付の女性に「入学の資料が欲しいんですがー・・・」と聞くと受付嬢は笑顔で「じゃあこれとこれとー・・・」とリーフレットや書類を並べて説明開始。学費は初年度で5800€かかること、でも日本の資格を既に持っているなら病院で働きながら通うコースが取れる可能性もあるので、それなら35%の2030€オフになること、2年目以降は取るコースによって月額で変わってくることなどを説明してくれた。出願や受験の正確な日取りに関してはオリエンテーションオフィスがあるのでそちらに行って聞いてくれ、必要な証明書類や試験内容についても詳しく教えてくれるはずだから、と言われたので「語学力の証明書類も必要になるんでしょうか?」と聞いたら

「うーん、そういうのは聞いたことないけど・・・外国から受験生が来ることってあまりないしね。あっ、でもね、スペイン語も大事なんだけど、ここではカタラン(カタルーニャ語)も使われているからその勉強も必要よ。カタランで授業をする先生もいるから」

・・・・・・・・・・orz

さて、もう一つの目的はオペラを観に行くことで、リセウ大劇場であった「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「道化師」の二本立てを観に行ってきた。
・・・・・さすがに字幕はスペイン語だろと思っていたら、こちらもカタランだったorz
そうだよなあ、リセウ大劇場の公式サイトでもデフォルトはカタルーニャ語なんだもん。

カタルーニャ語というのは、バルセロナのあるカタルーニャ自治州の公用語で、スペイン語に似ているようであり、なんだかイタリア語とフランス語の混じったような言語で、スペイン語話者にとっては読めば何とはなしに意味はわかるのだが、聞いても皆目意味がわからない。とはいえ街中の表示の筆頭はカタルーニャ語だし、地下鉄のアナウンスもカタルーニャ語がメインである。はっきり言えばここで生きていくためにはカタルーニャ語を覚えることが必要不可欠。しかし正直この年になってまた新たな言語をさらに覚えようという気力はもうないし、ここでまたカタルーニャ語を学べる所に通いなおすほどの余裕もない。どうせスペインだし大丈夫だよなー、と思っていたのだが甘かった。確かにスペイン語だけでも普通に暮らすのには困らないが、これほどまでに大事な場面でカタルーニャ語が主に使われる比率が高いものとは思っていなかった。

というわけでカタランに完全敗北を喫して帰国するその日、空港まで行くタクシーの運転手がアフリカ系のおっちゃんで、話を聞いてみたら16年前にモロッコから来た移民なのだという。スペイン語はいつ覚えたの?と聞いたら「モロッコにいたときから使ってたよ、ほら、対岸じゃない。それにモロッコではフランス語を話しているからスペイン語も覚えやすいんだよねー」と。わたしゃここではカタルーニャ語にずいぶん悩まされたよ、留学しようと思ってたんだけどカタルーニャ語が使えないと無理みたい」と言うとおっちゃん

「カタランは無料で勉強できるんだよ」と言う。

へ?

「州の方針で、カタランを教えているクラスは誰でも無料で受けられるんだよ、バルセロナ中いろんなところでやってる」

まーじーでー???!!!

カタルーニャ語も、話者数の減少により消滅の危機にある言語である。そのためカタルーニャ自治州は保存のための教育に力を入れており、こうした無償教育をしているのだという。カスティーリャ人に征服された南米で、先住民達がどれほど彼らの言語にプライドを持ち大切にしてきたかをこの目で見てきたくせに、同じようにカスティーリャに対抗してきたカタルーニャの人々にとってカタランがどれだけ大切なものであるかということに思いが全く及んでいなかった。わたしの言語に対する認識はまだ甘かったのだと思った。